テオドール・W・アドルノ 『自律への教育』

テオドール・W・アドルノ 『自律への教育』原千史ら訳,中央公論新社,2011年.

自律への教育 (MEDIATIONS)

自律への教育 (MEDIATIONS)

この本ともう少し早く出会えていれば,最終授業でお話できたのに,とつくづく思っています.いくつか引用をしたので,是非読んでみて下さい.

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6 教育は何を目指して
「教育とは,いわゆる人間形成ではありません.なぜなら,何人も外から人間を形成する権利などもたないからです.しかしまた,単なる知識の伝達でもありません.そのような伝達に,生命を欠いた物的な面があることは幾度となく明かされてきました.そうではなく,教育とはまっとうな意識を作り上げることです.まっとうな意識には,同時に顕著な政治的意義があると言えるでしょう.まっとうな意識という理念は,こう言ってよければ政治の面で求められます.すなわち,民主主義を単に機能させるばかりでなく,その概念にふさわしい仕事をさせようとすれば,自律的な人間が要求されるのです.民主主義の実現は,自律的な人々の社会というかたちでのみ思い描くことができます.」(150-1)

「私たちはもはや,いつになったらベートーヴェンソナタが隣の部屋から聞こえてくるのかと憂いているわけにはゆきません.むしろ,そんなものは聞こえてこないのだ,と覚悟を決めておかねばならないのです.」(157-8)

「他者のもとで我ならぬものを経験する中でこそ,おそらく個性は形成されるのです.」「事態は逆説的です.個人なき教育は押さえつけるもので,抑圧的です.しかし,個々人を,植物に水を遣って栽培するように育て上げようとするなら,そこには人を欺くイデオロギーの面があります.可能なのは,こうした一切を教育において意識化することだけです.そしてそれは,たとえば,今一度順応の話に戻るなら,闇雲な順応に代えて,どうしても避けられないところではっきりと自覚した譲歩を行い,そしていかなる場合にもたるんだ意識に立ち向かうことなのです.個人は,今日では抵抗の力の中心としてのみ生き延びている,と申し上げましょう.」(165)

7 野蛮から脱するための教育
「人々の圧倒的大多数が,文明の概念に見合った人格の陶冶を経験していないばかりか,原始的な攻撃意欲に充ち満ちています.人々は原始的な憎悪,あるいはそれを洗練された言い方で呼ぶなら,破壊衝動に満ちているのです.この破壊衝動は,文明それ事態がおのずと向かう方向,すなわち文明全体が爆発してしまう危険を増大させるのに,相当の貢献をしています.」(168)

「[野蛮の定義について尋ねられたことについて]わかりました.私には抵抗がありますが,おそらくここで野蛮を定義しておいてもよいでしょう.社会の理性的な目的との関係が見通せないような原始的な物理的暴力への逆行が起こる場合,すなわち物理的暴力の爆発と〔人間と〕の同一化が生じている場合,これは野蛮としか言いようがないのではないか,と私は疑っています.その一方で暴力が,すみずみまで制限された状況の中でも,人間の尊厳にふさわしい状態をもたらそうということと明らかに結びついている場合,その暴力を簡単に野蛮と断罪してしまうことはできません.」(174)

「教育における野蛮の永続化は,本質的にこの文化そのものに潜んでいる権威という原理によって媒介されるということも帰結するのです.あなたは攻撃性がその野蛮な特質を捨て去るための前提として,攻撃性を寛大に扱うことを要請しておられます.それはごもっともですが,そのことは,権威主義的な態度を放棄し,頑固で同時に皮相でもあるような超自我を形成することを断念することなしにはそもそもありえません.それゆえ正体不明の権威は,いかなる種類のものであっても解体するというのが,とりわけ幼児期の教育において,野蛮から脱するための最重要の前提です.」(184)

8 自律への教育
「そこ[教育学の文献]には自律の代わりに,実存的存在論によって飾りたてられた権威,絆といった不快この上ない概念が見受けられ,自律という概念をサボタージュすることで,民主主義の諸前提に対して,暗にのみならずまさに公然と逆らっているではありませんか.」(192)
「…〔絆が〕客観的真理であると受け入れられ,なおかつ受け入れられるべき根拠のある立場にもとづいているのではなく,ここではもしかしたら何らかの理由で,秩序や絆がよいものかもしれないという理由で弁護されている点です.自律(アウトノミー),つまり自分の頭で考え,判断すること(ミュンディヒカイト)などまったく気にとめてはいないわけです.」(193)
「何を行うのが正しいのか,いや,そもそも正しい実践とは何なのかを,思考すること,しかも惑わされずに首尾一貫して思考することなく,規定することなどできない,というところまで否定してはならないでしょう.」(193)

「そもそも大人の役割を演じているだけで,まったく大人になっていないような無数の大人がいるからこそ,そうした模範との同一性を,場合によっては演技でカヴァーしたり,大げさに演じてみせたりといったことさえ,せざるをえなくなるのです.自分が本当はなり損ねた役割を,自他ともに信ずるに足るものにするだけのために,威張って見せたり,大人ならこう言うであろうことをべらべらしゃべったりしなければならなくなるわけです.このような他律へ向かうメカニズムは,それこそある種のインテリの間にも見出されると思われます.」(200)

「こうした困難[=自律への妨げ]がある根拠はもちろん社会の矛盾です.つまり,私たちが生きる社会の仕組みは相変わらず他律的で,言い換えると,今日の社会では何人たりとも現実に自らが決めた通りに生きることはできません.(…)このことに立ち向かうことができるかどうか,またどのように立ち向かうかということなのです.」(203)

「こうして,まずはそもそも,人々は騙される,それというのも今日の他律メカニズムは,地球規模に高まったmundus vult decipi,すなわち「世界は騙されていることを望む」であるかだ,という意識を呼び覚ますよう,ともかく試みるのです.」(205)