2012年度 慶應法学部 小論文

2012年度の慶應法学部の小論文の問題を見た.「ビンゴ!」である.今年教えた教え子たちは,表面的な議論に終始せず,principleに沿った議論を書いてこれたであろうか.ちゃんと,民主主義や公共性の話と結び付けて書いてこれただろうか.

この話は,僕が授業中に何度もしてきた,構造にどう向き合うかという話と直結する.最終授業でしたマトリックスの話を思い出してくれただろうか.それ以外にも,オーウェルの『1984年』(と村上春樹の『1Q84』の話)はしたし,カズオ・イシグロの『私を離さないでNever Let Me Go』の話もたしかした.他にも,iPS細胞などで「人間」という枠を人間が超えられるようになるとメチャクチャになるという話もした気がする.それから,小論文の学生には,東浩紀Twitter民主主義の話,古市憲寿の「あきらめさせろ」とTwitterお手軽承認問題の話もしたし,そこまでつなげて書いてくれただろうか.もしそうなら嬉しい.
改めて,本文を読んでみるとゾッとする.人間は人間を根源的にはコントロールすべきではない,ということがおぞましいほど分かる.でも,この問題のミソは,「擁護」もしろと書いているところだ.(多分,普通の出題の方法なら,ほとんどの受験生が反対意見を,しかも印象論に終始して書くだろう.)ちょうどタイムリーなのだが,国民ID制度の話も小論文の学生たちにはしておいた.震災のとき,「番号」があれば,もっとスムーズに被災者が社会保障を受けられた,と.もちろん,セキュリティーがもっとも大きな問題だし,「番号」という無機質なものに支配されたくないという国民の声が聞こえる.でも,我々は社会に生きる以上,システムから逃れることはできない.システムとは効率性だ.社会を「回す」ため(それが政策だ),我々はシステムの合理性を一定程度認めざるを得ない.ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の最小限国家の思想は,無政府主義無政府主義アナーキズムは違う!)では社会は回らないということを示してる.当たり前のことだ.
その行き過ぎ(本文のケース)に歯止めをかけるのが,民主主義なんだ,そのための国民の最低限の公共性は必要だし,教育は必要だし,それはコミュニタリアニスト的には,「規定不可能」なもの,つまり人間が人為的にシナプスに電気信号を送るような形では実現できないもの,だと思われる.じゃあ,何なのかと言われると,文科省の「ゆとり教育」と同じくらい難しい問題になると思う.
急に古い話に飛ぶが,日大の全共闘の人が「(直接)民主主義とは人間性なんだ」と言っていたことを思い出した.マルクスも「人間性」にコミットする.僕たちが守らなくてはいけないのは,人が社会で生き生きと暮らす価値である.けど,ここで,堂々巡りが起こる.アーキテクチュアと愚民社会の問題だ.人が生き生きと暮せるように,人に知られない形でシステムを構築し,人びとの効用を上げる.フィールグッドプログラムだ.本文が指摘するように,じゃあ,そのシステムを作るのは誰なのかという話になり,そこには卓越主義perfectionismやパターナリズムの存在を否定できない.ここで,法哲学的な問題となる.
著者の長尾龍一さんは,僕の習っていた東大の井上達夫先生の兄弟子だ.井上先生は,反卓越主義anti-perfectionism的な政策論的目的論にコミットする.それが正義だと言う.つまり「脳のシナプスに電気信号をつけることなく」人びとが良き生をそれぞれが自己決定できるように共生の枠組みを作る,それがリベラリズムの本義だと.もちろんそこには公共性が必要とされる.でも,そんな公共性なんか無理だよ,というのが,功利主義者たちの主張で,例えば,今の日本人のオタクの多さなどを見ていると,日本の国民性としては,功利主義の方に軍配が上がるのかな,と思ってしまう.
結局,「功利主義の罠」(本文にあるような)を乗り越えるためには,ある種のエリーティズムに頼らざるを得ないし,そこにはエリーティズムの良識が,つまり「徳」が要求される.
古市憲寿は言う.「あきらめられる人は,それで幸せだ」.その通り! 「あきらめきれない人」がエリートになる.「あきらめられない人」がノーブレス・オブリッジに基づき,政策的目的論として,ときには,多様な自己決定を包摂するリベラリズム的な枠組みを「強制」し(反卓越主義を卓越的に推奨する),ときには,功利主義的な(こう言ってはなんだが,バカでも楽しく生きられるような)枠組みを「強制」する,そういうモデルになる.それが,〈システム〉の作り方だ.もちろん,マトリックスのネオ自身がまたマトリックスの一部であることを,つまり,「教育者自身が教育されなければならないことを」(マルクス)十分に再帰的に自覚する必要がある.これが正しいのかどうか,それは分からない.もっと問題なのは,そのエリート要請のマッチングの方な気が(今の東大生の様子を見ていると)する.

ここまで言ってきたことは,小論文の授業で何度も言ってきたことです.あくまで「私見」として.彼ら,彼女らは「良き」大学生になってくれるだろうか.そういう言い方さえもが,パターナリスティックで卓越主義的なのかもしれないが.


問題はこちら→ http://mainichi.jp/life/edu/exam/daigakubetsu/graph/keio_hou/ronjutu/1.html