映画祭1968

「映画祭1968」に行ってきた.

http://eigasai1968.com/

日大の芸術学部の学生たちが主催ということで,同じく3年前に立花ゼミで「若者の側から,熱かった,よく分からないあの時代を振り返る」イベントを主催した自分の身としては,大変なシンパシーを持って,初日,観に行った.

『日大闘争』『続日大闘争』,当時の記録フィルムであるが,これは大変貴重なもの.

僕としてのこの「映画」の見どころは,まず「大衆運動なんだ,それに立脚した民主化なんだ」という価値を日大生たちが大いに訴えるところだ.
東大と違って,日大は「大衆の」大学だった.大学は「みんなのためになること」をするべきなのにそうじゃない,と,今の政治家がまさに言ってそうな,そんな「当たり前の価値」を当時の学生たちは主張していた.「学生運動=危ない何か」というステレオタイプで見てしまいがちな若者たちは,当時同じく若者だった彼らのメンタリティーを,同じ視点から少しでも考えてみようとは思えないんだろう.上映後のイベントでの登壇者である,当時の芸術学部闘争委員会委員長,眞武善行さん,彼はとても優しそうな方だったが,例えば,彼の今日のトークなどに耳を傾けてみれば,今の若者なんかでも「なんて当たり前のことなんだろう」と思ってしまう.それが,「大衆」運動の意義だ.

同時に,この映画は大衆運動の限界を映し出している.「大衆」という言葉が一人歩きするとき,悲劇はおこる.その過程が,『日大闘争』→『続日大闘争』に移るにしたがって,悲しげに映されていく.運動は後退期はダラダラと続くものだ.その感覚が伝わってくる.

もう一つ,この映画で観るべき大きなポイントがあると思う.それは,武器に関して学生たちが議論するシーンだ.学生運動は戦争ではない.社会運動である.学生運動を弾圧する側の機動隊だって,当時は,もしかしたら学生の側にいたかもしれない(けれど,家庭の経済的都合でそうはできない)若者たちが多かった.右翼学生だって,思想は違えど,同じ「学生」だ.だから,ゲバ棒や投石は「学生」運動としての,「最後の」武器なのだ.そこから,火炎瓶を使用するかどうかについて,学生の間でも意見が分かれる.その後,70年代に入るにしたがって,闘争は過激化し,大衆から遊離し,殺し合いに発展していく.

68年はお祭りだ.それでいい.お祭りはヤングカルチャー(サブカルチャー)だ.その68年の文化的空気が演劇やロックなどで少しだけ出てくる.とくに,ロックをやるシーンはウッドストック的な何かを感じさせる.とても貴重な映像だ.(たしか,頭脳警察のドキュメンタリーに使われていた.)

映画としてでなければ,取りこぼされてしまう何かがある.映画だからこそ見えるものがある.その可能性を求めて.

「映画祭1968」は,2月3日まで.是非,足をお運びください.