辺見庸 インタビュー(『週刊金曜日』2012.1.13号)

辺見庸のインタビューを読んだ.あぁ,なるほどね,これはダメだ,レベルが違い過ぎると思った.『週刊金曜日』に載せられたインタビューはたったの5ページ! 最初,いろいろと感想を書くつもりで読み始めたのだが,すぐに,あぁ,僕には適う相手ではない,ということを悟った.「それでも人は言葉から逃れることはできないのか.」

立花ゼミの後輩が震災企画をやっていた.彼女は言う,「震災をとりまく言説には違和感を感じる」と.でも,その違和感が分節化できないらしい.その彼女が,辺見庸が「ヤバい」と言う.『瓦礫の中から言葉を』のamazonのカスタマーレビューなどを見ていると明らかに「変だ」った.それでなんとか,『週刊金曜日』のバックナンバーを手に入れて読んでみた.僕は「言葉で伝えてナンボ」の思想を生きていたので,彼女に「語りなさい」と言った.でも,それは,今回に限り,間違えていたのかもしれない.けれど,言葉で語れない重さ・しんどさを言葉で語らなければならない重さ・しんどさ.その価値を真っ正面から認める者が,Twitterに甘んじていてはいけないと思う.過去に,現代芸術家の内海信彦さんの講演を聞いたときにいたく感動を覚えた.「mixiなどのSNSで満たされる人は芸術家になれない」というような内容を言っていた.その彼はいま,敢えて,Facebookをやっている.その内海信彦さんは,アウシュビッツに行ったきり,プチ鬱状態になって,そのエネルギーで作品を作っていた.その作品を拝見したとき,何と言えばいいか,辺見庸の「しんどさ」と同種のものを感じた.(こう言っては失礼だろうか.)僕は『眼の海』だけ読んだときは,「分からなかった」.もちろん,ある種の「しんどさ」は伝わった.けれど,それは,数字の上での「しんどさ」と何が違うかと言われると自信はないし,それを批判したいのが辺見さんの主張だろう.人の死の重さを思えば,現代人は誰も知らない.無惨な死に方をした人のリアリティを僕たち現代人は誰も知らない.その死体が10体積み重ねればどうか.100体はまた,その10体が10個山をつくる.想像はリアリティだ.何の根拠もなくイマジネーションを信じることは無力だ.その100個の山のイメージがさらに10個で1000体.それがさらに…….今回,死者,行方不明者は20,000人.我々がいかに数字の上のマジックに踊らされていることか.(それは,質と量をめぐるトリック.)アウシュビッツのエネルギーで作品を作る内海さんが,今回,原発の話を芸術家としてアジりまくっているのにも納得がいく.

辺見さんのインタビュー,『週刊金曜日』のバックナンバーでしか見れないのは残念だ.『週刊金曜日』のバックナンバーなんか,本屋に売ってない.『眼の海』は僕たちシロートには分からない.辺見さんは,もと共同通信のジャーナリストで,言葉で伝えられないことを言葉で伝えるギリギリのラインで闘ってこられた人だ.ある意味でペンなんか無力って,当たり前のことだ.そんなことには気づいている.けれど,僕がジャーナリストになった先輩に挨拶に言ったとき,それでも彼は「書くということで,何かが動く」と言っていた.それは,ペンで世界を変えられるかどうか,というような話ではない.その格闘家,辺見さんが,鬱病になりながら,自分のなかの〈コトバ〉をギリギリのところで産んだ作品,それが詩というギリギリの形だ,ということだろう.そこまで言われないと,僕には分からない.そして,インタビューでの,辺見さんはさすがジャーナリストだけあって,やっぱり言葉が「うまい」.

週刊 金曜日 2012年 1/13号 [雑誌]

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眼の海

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瓦礫の中から言葉を わたしの〈死者〉へ (NHK出版新書)

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