佐藤信 『60年代のリアル』の書評

60年代のリアル

60年代のリアル

佐藤信 『60年代のリアル』,ミネルヴァ書房,2011年.

この本は,もしかしたら,僕が書いていたかもしれない本だ.もし,あのまま僕もリサーチを続けていれば,だが.
そんな気持ちで,一気に読んだ.

筆者は,1988年生まれの東大大学院生.御厨ゼミの出身の子で,僕と同世代で,リサーチの方向性も一緒.必然的に,辛口のコメントになる.
2010年代の大学生が,60年代の大学生を振り返るとどう思うか,というのが本書の内容だ.2010年代の社会と,60年代(+70年代)の社会を往復して(その間は飛んでいるが)比較をしている.「リアル」/「アンリアル」という観点で「皮膚」(「身体性」の方が普通だと思うけど)というタームにより若者の現実への関わりを総括する.

たくさんの本を読んでいる.それはすばらしい.でも,そのわりには,思想的な深さが見えないのが,とても残念だ.「身体性」への着眼には同意できる.マルクスの言葉だと「物質性」とか「形態」とか「現実性」あたりと関係するだろうし,資本主義による資本-賃労働関係に対抗する砦として,「身体性」という概念にはアクチュアリティがある.でも,そんなことは,すでに小阪修平『思想としての全共闘世代』や,とよだもとゆき『村上春樹小阪修平の1968年』に書かれてある.この本のオリジナリティはどこだろう.
マクルーハンメルロ=ポンティへの言及もあるが,その思想的内容が分析に全く活かされていないと思った.マクルーハンのメディア論を考えれば,インターネットこそまさに「身体」の延長上として捉えられると思うが,インターネットに関しては濱野智史などに依拠して,途中からは完全にオタクサイドの議論になっている.マトリックスなどの主客転換の話は共感するが,ガンダムの話はし過ぎな気がする.好きだってのは伝わってくるが.
多分,これから全共闘世代による批判がたくさん来ると思うけれど,60年代の空気の括りは大雑把すぎる.リアルとアンリアルの転換を70年に置いているようだが,それも少し安易では.現実は,単純な二項図式で論じれるわけがない.
60年代の空気を「ジャズ」という用語で総括しているが,それも筆者の趣味によるバイアスが強い.「カウンターカルチャー」という概念で文化の射程を考えるべきだろう.
それから,気になるのだが,60年代の分析本なのに,マルクスの話が出て来ない.マルクスという言葉さえ出てくる気配がない.全共闘の話をしているのに,それはいかがなものか.上の世代は怒りまくるんじゃないか.
こういった難点は,60年代を生きた当事者にインタビューをすればすぐ分かるはずだが.

民主主義にとって肝心の公共性への分析も浅い.肝心のpublic virtueの話にもつながっていない.
僕は文章を書くときには,常に誰に向けて書くのか意識するようにしているが,この本はいったい誰に向けて書かれているのだろう.文献紹介では「オススメ」とか「重要」とか上から目線が気になる.筆者は,60年代の空気に関して,何が重要か価値判断できる立場なのだろうか.
バイアスがかかるのは当然だ.でも,それを相対化しようとする努力があまり見られない.この本は,全体的に,ガンダムやジャズが好きな東大生が自分の趣味的枠組みに60年代の空気を押し込んだ本という印象がする.これらの相対化の難しさは,例えば,小熊英二の『1968』を読んでいるのなら,よく分かるだろうに.

最後に,これが一番気になる点であるが,佐藤さん本人の政治的スタンスがあまり見えないのが問題だ.全共闘が問うたのは当事者性だったはずだ.E.H.Carrは『歴史とは何か』で,歴史とは「現在と過去の対話だ」と述べているが,その別の箇所ではもっと本質的なことが述べられている.歴史とは「現在の人が背負っている社会と過去の人が背負っている社会の対話だ」というような趣旨だ.それこそが若者が過去について書くことの意義だ.2010年代の若者,少なくとも,筆者の佐藤さんは,何を背負っているんだろう.今後のイベントなどで明らかにしていってほしい.そして,過去の人間が何を背負っていたのか,インタビューなどで耳を傾けていってほしい.人は背負っているもので価値が決まると思うから.

辛口に書いたが,それは,期待しているからこそ,だ.
一つ一つに応えていってほしい.

筆者のものと思われしブログ:
http://ameblo.jp/m-pec/

立花隆「「政治家」小沢一郎は死んだ」

文藝春秋 2010年 03月号 [雑誌]

文藝春秋 2010年 03月号 [雑誌]

大学の授業が終わりました.駒場では,先学期,立花隆によるゼミナールが開かれていたのですが,立花さんももう「人生の残り時間が大事な時期に差し掛かっている」ということで,最後のゼミになりました.

立花隆氏が今月号の文藝春秋(3月特別号)に「「政治家」小沢一郎は死んだ」という記事を書いているのですが,ゼミの最終授業がその記事の内容になっています.日本の未来のことを考えるには,若者のことを考えなければならないが,そういったとき「いまさら小沢一郎でもないだろう」と言い切ってしまうすごみが立花氏にはある.

上の世代には,「もう君たちの世代だから」と,いわゆるジェネレーションギャップを埋めようと対話しようとする老人が果たしていかほどいようか.ちょうど,先月号の文藝春秋にも,池上彰氏が若者と対談している記事が載っていた.「二十歳の若者が語る明日」という記事だ.僕も良く知っている中島くんという法政大学の男の子が「経済成長なんかぶっちゃけどうでもいい」とぶっちゃけて語っている.これはすごい.

立花ゼミ最終授業では,立花さんが用意した質問にゼミ生が答える形でアンケートが取られた.日本の政治に対しての意見だ.そのアンケートが記事にはふんだんに使われている.引用された記事を書いた人は,何年生まれかが記載されているが,ゼミに2人いる87年生まれのうちの1人が僕なので,いくつかの引用されたアンケートは僕の手によるものだ.見れば言葉遣いでバレるかもしれない.

「「政治家」小沢一郎は死んだ」の読みどころは,全共闘世代のところであろう.

全共闘の戦士も太平洋戦争の兵士も一緒くた」という表現にはビックリしたが,安田講堂攻防戦からもう四十年余.彼らが生まれる二十年も前の話だから,そうなるのかもしれない.実はこのゼミが一昨年の駒場祭全共闘時代を語るシンポジウムを行ったところ,現役の学生はほんの少数しか来ず,集まったのは全共闘世代がもっぱらだった.このとき現役学生のアンケート調査もやったが,基本的に関心は薄く,あの闘争を「大いに評価する」とした人はきわめて少数(実数六名)だった.いまの民主党政権の中枢には全共闘世代がかなり入っており,いまも「気分は全共闘」の人がいる.だから,政権奪取をもって「無血革命」だなどと喜んだりする.しかし,もっと若い連中には,そういう認識は全く見られない.そもそも,彼らは政治を冷めた目で見ている.(111-2頁)

もはや,世代ということ自体が,これからの世代にはどうでもいいのかもしれない.
流動化する現代で,まったりと生きられないおっさんたちは,下の世代を見ないようにして(つまり<差異>を見て見ぬふりをすることによって)生きていくことが一番楽なのかもしれない.だからこそ,立花氏や池上氏やその他,若者と対話できるおっさんたちにはとても敬意がある.そういうパラダイムシフトを成し遂げてしまうおっさんに僕もなりたい.

立花氏の記事はこう締めくくられる.

 五問目は「あるべき未来の政治システム」について聞き,六問目は「いま解決が迫られている政治アジェンダ」について聞いた.その内容を伝えるスペースはないが,議論は夜中までつづき,さらに翌日以降もメールやツイッターで議論が白熱した.一言でいうなら彼らは今の諸政党を全く評価していないし,現行政治システムはダメで,抜本改革が必要だと思っている.私もそう思うが,彼らの議論を聞いていると,未来の日本はいまより希望が持てそうだなと思った.(116頁)

本当にそうだろうか?
けれど,これは,最後の授業の想い出です.少しだけ,目頭が熱くなった.

リンク(3月号):http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/index.htm
リンク(2月号):http://www.bunshun.co.jp/mag/bungeishunju/bungeishunju1002.htm

「ストリートの思想とマルクス」(毛利嘉孝×表三郎 対談)

 毛利嘉孝氏と表三郎氏の対談イベントがサウンド・カフェ・ズミで行われます.毛利嘉孝氏はカルチュラル・スタディーズの大御所.近著『ストリートの思想』では,文化と政治の結節点を鮮やかに描き出す.文化の背後に潜む政治性について,今このような手法で研究を進められるのはおそらく毛利氏だけであろう.その毛利氏が思想・哲学に目覚めたのが予備校時代.その予備校時代の先生が表三郎氏だ.表三郎氏は在野の闘う思想家.全共闘運動を経て,大学の非常勤講師から駿台予備校講師に流れつき,約40年間,実践的な英文読解法の指導にあたり続ける.91年までは関西の英語科主任を務め,受験会でその名を知らない者はモグリと言われるほど人気を博した.思想の研究はマルクスを中心としたもので,最近は「マルクスの<実践>論」を『情況』に連載中.
 今回,毛利嘉孝氏と表三郎氏の対談にあたり,約30年ぶりに師弟再会となる.前半は思想史の話が中心となる.毛利氏のご専門である「ストリートの思想」が,思想史上どう位置づけられるのか,マルクスの実践論的思想がどの程度,ストリートの思想と親和性を持ち得るのかが争点となるだろう.そして,後半は,当時の予備校での話や表氏主宰の研究会の話など,今の研究会の大学生なども交えながら,フリートークを行なう予定.乞うご期待!

 日時:1月24日(日)14時半OPEN,15時START〜17時半
 場所:吉祥寺,サウンド・カフェ・ズミ
    http://www.dzumi.jp/,〒180-0005 武蔵野市御殿山1-2-3 キヨノビル7F(1Fがスリアというヨガグッズ屋さんです)
    サウンド・イメージ研究所 0422-72-7822,JR吉祥寺駅南口より徒歩5分
 料金:カンパ制(500円〜),ドリンク注文別.

加藤登紀子の『登紀子1968を語る』発売!

登紀子1968を語る (情況新書)

登紀子1968を語る (情況新書)

詳細 → http://www.tokiko.com/test/tokiko_now/t20091221001.html

僕となぎさという大学生2人で加藤登紀子さんに行ったインタビューが新書になりました.情況新書の第1号です.上野千鶴子さんとの対話も収められています.

来月号の『情況』には僕が宣伝文の記事を売っています.この本および『情況』の記事は,僕がずっと進めてきた全共闘のリサーチの一つの集大成的なものになると思います.68年を語るとは結局どういうことなのか,それを若者の視点からどう考えるかという問題意識です.

どうぞ,よろしくお願いいたします.

『情況』12月号

情況 2009年 12月号 [雑誌]

情況 2009年 12月号 [雑誌]

いまさらながらですが,発売中です.この号,小熊さんの特集ですごく売れています.本社にはもう在庫がありません.

僕は,たしろゆきさんと『戦後スタディーズ』の書評を書いています.

ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一章「贈り与える徳」より

 これらのことばを語りおえると,ツァラトゥストラは口をつぐんだが,何かまだ最後のことばを言わなかった人のようであった.しばらくかれはためらうように,手にした杖をうごかしていた.ついに,かれはこう言いはじめた.——その声色は変わっていた.
 いまは,わたしはひとりで行く.弟子たちよ.あなたがたもいまは別れて,ひとりで行きなさい! それがわたしの希望だ.

(……)

 いま,わたしがあなたがたに求めることは,わたしを捨て,あなたがた自身を見いだせ,ということだ.そして,あなたがたがみな,わたしを知らないと言ったとき,わたしはあなたがたのところに戻ってこよう.
 まことに,兄弟たちよ,そのときはわたしはいまとは違った眼でもって,わたしの失われたものたちを尋ね出すだろう.いまは違った愛をもって,あなたがたを愛するだろう.
 そして,いつかは,またあなたがたがわたしの友となり,同じひとつの希望の子となる日がくるだろう.そのときは,わたしは三度あなたがたを訪ねよう.大いなる正午をあなたがたがとともに祝うために.
 大いなる正午とは,人間が動物から超人にいたる道程の中間点に立って,夕べに向かう自分の道を,自分の最高の希望として祝い讃えるときである.それは新しい朝に向かう道でもあるからだ.
 そのときは,没落する者も,かなたへ超えてゆく者として,自分自身を祝福するだろう.そのとき,かれの認識の太陽は,かれの真上に,天空の中心にかかっていることだろう.
 「すべての神々は死んだ.いまや,わたしたちは超人の生まれることを願う」——これを,いつの日か,大いなる正午の到来したとき,わたしたちの遺言としよう!——
 ツァラトゥストラはこう言った

ニーチェツァラトゥストラはこう言った(上)』氷上英廣訳,岩波文庫,131-3頁.)

☆☆☆

塾の1月生が終了しました.講師をやっているってこんなに楽しいんだなって,実感した日.ずっと忘れないでしょう.

皆,ありがとう.

カフェ・ズミ

吉祥寺のカフェ・ズミに行く.

http://www.dzumi.jp/

フリージャズ喫茶で,ここはすごいお店だ.
店主がすごい.やはりジャズ喫茶の店主なのか,独特なアウラをしている.

かけてもらったレコードはコレット・マニー.68年のパリで歌に政治色を入れていった異色のシャンション歌手だそうだが,Wikipediaにはフランス語版しか乗っていない.文化力がすごい.

http://www.jazztokyo.com/mb/free_music/v21/v21.html

http://fr.wikipedia.org/wiki/Colette_Magny

「レコードなんて,コレクションしても仕方がないからね.ライブラリーみたいに次の世代に受け継がれていったらいいと思う.」

そう語る店主.ちょっぴり,亡くなった僕の祖父に雰囲気が似ていた.